やりたいこと


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私がやりたいことは一体なんだろう、とずっと考えてきた。どういうことがしたいんだろうか。

お店を開いたんだから、お店がやりたいに決まってるんだろう、と思われるかもしれないが、そうではない。そうではないわけではないけどやっぱりそうではないのだ。散々考えたけど『お店が』やりたいわけじゃない。
お店はある日突然降ってきた。もともとお店を開きたいと思ってもいなかった。私は普通の会社員だったし、たまのお休みの日に料理のイベントを開催したりもしていたけれど、だけど現実に本当に、お店を開店するなんてことが起こるなんて、考えてもいなかったのだ。

だからお店が降ってきて本当に困った。もう率直にただただ困った。何をしたらいいのかさっぱりわからなかったからだ。わからないのにやらなきゃいけない。毎日閉店後にカウンターでさめざめ泣いた。なにがいけないのかわからない。なにがしたいのかわからない。相談する相手がいない。文字通り本当に毎日ひとりで飽きもせず泣いた。そうでもしないと生きていけなかったのだ。ひとりだった。なんでこんなにひとりなんだろうと思った。ひとりで毎日泣く、ということを失恋以外でできるんだと冷静に感動さえした。ひとりでお店を切り盛りすることのプレッシャーに押しつぶされていた。
キリキリとした顔と頭で、そうしていくうちに人々にどんどん見放されていった。びっくりするくらい去って行った。ただの言い訳にしかならないとわかっているけれど、本人としてはただただ一生懸命で、困っていて、それがゆえにわけが分からなくなっていただけだった。だけどそれがきっと傲慢や常識はずれに映っただろうことも今ならわかる。今では穴があったら入りたいほどに恥ずかしく、そして申し訳なく思っている。わかってくれる人だけがわかってくれればいい、と言って当時は自分で自分を鼓舞してなんとか暮らしていた。

いろんなことがあった。貧乏になった。病気もした。怪我もした。死ぬかもしれないと思った。運良く死ななかったのでいろんな人に会いに行った。その中で、自分の価値観がいかに狭いものだったかを思い知る。あらゆる人たちはだいたいみんな優しくて、穏やかで、やりたいことがあった。そのためにはどうしたらいいのか、ということを考えていた。みんな未来を悲観することなくかといって怠けることなく見据えていた。すごいなと思った。えらいなと思った。うらやましいなと思った。仲間がいたりした。嫉妬も妬みもたくさんした。自分が一番嫌いな人間に、他でもない自分がなっていくのを、手の施しようがないままただ眺めていた。

あの頃の私のことを思うと、自分で自分を鼓舞しなければいけなかったのならもう一人の自分はせめて、もう少し自分に優しくしてあげなよ、と言ってあげたい。ひとりで生きていかなきゃいけない自分を、自分まで認めてあげられなかったら、一体どうやって生きていけるというのだろう。時が流れて、最近の私はどう思われているのかさっぱりわからないけれど、不思議とまったく気にもならなくなった。私を見放す人たちがいた中で、不思議と何も言わずに静かに見守りながら応援してくれる人たちも、一方で大勢いたからだ。共に過ごしてきた時間の長さとか、かけてくれた耳心地の良い言葉とか、そういったことは、そばにいてくれた人たちの面々を思うと、全く関係のないことなんだとわかる。そこにいる人はそこにいるのだ。私がどういう状態であれ、私がやることをただ眺めていてくれる。そういう人たちにたくさんたくさんいろんなものをもらってきたから、私はここまでお店をやってくることができたのだ。もし私が本当にたったひとりでお店をやっていたんだとしたら、おそらく3か月くらいで簡単にくしゃくしゃにつぶれていたはずだ。過小評価でなく。そのくらい、1日1日の営業というものはとても大きい。3年半経ってようやくわかった。3年半もかかっただなんてまったく自分が恐ろしい。

いろんなことが分からなくなっていく中で、尻尾の末端だけでもつかめるかもしれないと、いろんなことをやってきた。開催したイベントの数だけでも相当なものだ。何回パーティーを開催して、何回の展示をし、何回ライブをやって、何杯のビールを注いだろう。そのくらい、たくさんの人たちと、ここで遊ぶことができたのだ。そう考えるとすごいことだ。これからも、きっとたくさんのこういうことをして過ごしてゆくのだろうと思う。そう思うとわくわくする。ちょっと派手なこと。愉快な人たち。お洒落な時間。そういうものにとても心惹かれる。大きいイベントにはたくさん人が集まる。たくさんの人たちが楽しそうにしている姿を眺めることができる。それは本当に幸せなことだ。そういう景色を見ることが仕事だなんて、どれだけ恵まれているんだろう。
だけど、と、ふと立ち止まる。これはやっぱり、特別なことなのだ。

毎日残業で疲れていて、朝起きたら出勤ギリギリで、慌てて乗った満員電車で同じ車両の人たちが喧嘩をしているのをジッと我慢してやり過ごし、仕事で失敗をして上司に怒られて、そしたら同期の友人が手伝ってくれて助かって、ああなんだかなあ、今日は少し早く帰ろう、って帰りの電車でふと、ああ、もももに行こう、と思って来たんだ、という人に作るごはんが私は好きだ。普段のもももちゃんはとても静かでのんびりしている。ゆるやかな時間の中で、そうやってカウンターに座る人たちの事情を、お味噌汁を飲むその顔の中に眺めることを、私はとても大切に思っている。ゆりちゃんのごはんを食べに来たんだ、と言う人たちのその言葉に潜む、生活の澱みたいなものを、でもきっと私は救ったり癒したりなんかはできない。だけどそれを、ちゃんと眺めてあげることはできるんだろうと思う。眺めてただ返してあげる。それが何になるかはわからない。ただ、誰にも焦点を当ててもらえないようなところにピントを合わせることだけならできる。座っているそのカウンターで、私は何度もひとりで泣いたから、見えることがきっとある。それは、ずっと何も言わずに静かに見守ってきてくれた人たちに、私が唯一できる恩返しだろうと思う。そして大事にすることができずに去っていった人たちへの、変わりにならない謝罪でもある。

私にしかできないことと、私がやりたいことは、たぶんそういうことだ。